まずは指導者になる以前の話から。内野監督は関西屈指の強豪校である和歌山県の初芝橋本高校を卒業後、高知大学に進学。進路に関しては多くの選択肢があったと想像に難くないが、あえて関西から四国へと渡ったのだ。その理由とは……。
「大学から推薦されるための実績のハードルみたいなものがあって、僕、高1の時に運良く選手権でベスト4に入ったんですよ。当時はJユースよりも高体連の方が盛んで、インターハイや選手権でベスト8以上の実績が必要とかっていう規定があって。例えば最高ランクやと、年代別の代表に選ばれた実績があるとか。だから基本的にはどこの大学も基準に達してたんですよね、選手権でベスト4まで進んだので。ただ当時の初橋の監督がどういう意図があったんか、なぜか推薦の話を一切教えてくれなかったんですよ。大学やプロから話が来ていたことを後から間接的に知った(笑)。高知大に進み、選抜チームに選ばれてコーチと話をしている時に、『内野って出身どこ? ふ~ん、初橋か。京都のインターハイ(97年開催)があった時代の初橋の右サイドのやつ、すげえ良かったよな。あいつ卒業後どこに進んだんだ?』って聞くから、『それ多分僕っすよ』って(笑)。関西大学のスポーツ推薦に漏れてから高知大に舵を切ったと言ったものの、『いやいやウソだろ。本山(本山雅志。鹿島アントラーズ⇒ギラヴァンツ北九州)らがいた東福岡戦の後に、大学の指導者やJリーグのスカウトが集まる機会があって、みんな初橋の14番に声かけると言っていたから、そんなはずがない』と。あとは高知から地元の堺に帰った時に、中学時代の後輩にも言われましたね。『内野はプロから推薦があったけど、国立の大学に受かったからそっちを選んだって先生から聞きましたよ』と。『いやいや、話来とったら行くやろ』って(笑)。まぁ今となっては、どこまでホンマかわからないですけどね」
推薦があったにも関わらず知らされていなかったという衝撃すぎる事実……。ただ時はすでに進み、高知大学でサッカーをエンジョイしていた内野青年は必要以上に過去を振り返り、思いを巡らせることはなかったという。それにもうひとつポジティブな要素があったからだ。
「高校生の頃、父親に進路の相談をしていた時に、大学経由でプロになりたい、引退後は指導者になりたいという話をしたら、『サッカーの指導でメシ食っていくなんて無理や。超一流の選手やったらJリーグで監督ができるかもしれんけど、そこに可能性をかけるよりも教員免許を取って学校の先生を目指したらどうや』と言われてね。『お前の性格考えたら一般的なサラリーマンは絶対に無理やろ』とも(笑)。ただ、それもそうやな、学校の先生いいかもなと腑に落ちたんですよね。指導者になりたいというのは中学生の時分から考えていました。ヒガモ(堺市立東百舌鳥中学校)の頃も2年生くらいから練習中に先生にああだこうだと口出ししていましたし、試合のメンバーや戦術も僕が決めてました。先生からも言われてましたね、『お前指導者になったらええんちゃう? お前みたいな態度でかいヤツ知らんわ』って。あとは進路を考えていた時に高知大が全国大会で3位になって、なおかつ監督が全日本大学選抜も率いられていた方で。まだまだ成長できそうやなと、このことも高知大を受けようと思った決め手になりましたね」

監督の穿くパンツにプリントされた「14」は、現役時代に付けていた背番号から。同じナンバーを背負っていたクライフへの憧れでもあり、監督時代に彼が志向していたボールポゼッションを柱とする攻撃的スタイルへのリスペクトの意が込められている。
晴れて高知大学で教員免許を取得し、卒業後はJFL(03年当時)の愛媛FCに入団。99年開催のワールドユースで準優勝という快挙を成し遂げた、内野監督と同年代である黄金世代と肩を並べるほどのスキルを幼い頃から持ち、高1で選手権ベスト4に入り、小学校から大学までの全チームでエースとキャプテンを務め、遂にプロ入りという十分すぎるほどのキャリアを築いていた。だが、チーム入団1年目で原因不明の体調不良に襲われ、引退を余儀なくされることに……。
「サッカーだけでは食べていけなかったんで、入団1年目に愛媛TOYOTAのパート社員みたいな感じで営業アシスタントを掛け持ちしていました。ん~、今でも理由はわからないんですけど、ストレスなんかなぁ。夏くらいから20分ほどトレーニングしただけで、貧血で意識を失うという。検査をしてもいたって健康やと言われたんですけど、それの繰り返しで。結局1年目が終わってからの面談の時に戦力外やと……。堺の実家に戻った後は、奈良の高田FCというアマチュアクラブでプレーしながら高校の外部コーチを引き受けたり、知り合いのところで日雇いのアルバイトをしたり。実家暮らしやから何とかなったものの、ほぼフリーターですね。その後は堺と南河内にある高校の非常勤講師の掛け持ちを。その頃に高田FCの後輩が、たまたま興國高校で先生をやってたんですよ。彼は新卒で入ったんですけど、JFLに行きたいからって高田FCでのプレーも興國の先生も辞めて、自分の代りに僕に興國行ってみたらって薦めてくれて。その年の冬に非常勤で行ったのが始まりですね。最初は手伝いくらいの感覚でいいからって。それが26歳の頃の話です」
それからしばらく月日が流れた頃に、常勤の話と本格的にサッカー部監督の打診を受けたという同氏。公立高校での教員を考えていたこともあって一度は丁寧に断りを入れたものの、大学時代の後輩をコーチとして採用するとまで言われ、さすがに心が動かされた。
「僕が非常勤で入ったタイミングと、サッカー部に力を入れたいという学校側の考えがちょうど合致したんですよね。それならと引き受けました。最初は部員がたったの12人で、そのうちの半分以上が高校からサッカーを始めたというメンバー。ただ、監督をやるからには強くしたいという一心で、ガンバ堺(ジュニアユース)の監督に相談に行っては中体連の選手を教えてもらって。それからちょっとずつトレセンの選にぎりぎりで漏れた生徒や、めっちゃ強いチームのスーパーサブやった生徒なんかがウチに来てくれるようになりましたね。あとはその頃からドリブルなんかの技術のトレーニングしかしないと言い続けていました。ほかの高校とは違うことをしないと、わざわざ興國に入らないと考えたんです。ただ全国を目指すだけではあかん、どこもやってないことをやらんと無理やなと。もともと僕自身がドリブラーやって、子供の頃はクライフ(ヨハン・クライフ。フットボールレジェンドのひとり。一昨年に永眠)が好きやったんですよ。それに彼が指揮していた、ロマーリオ(元ブラジル代表の90年代を代表するストライカー)らがいた時のバルサに憧れていました。高校時代に死ぬほど走らされたから、ああいうサッカーはしたないなと。クライフのバルサのようなテクニックや展開力をベースとした、攻撃的なサッカーをしたいと思っていましたね」

選手のトレーニングウエアの裾に描かれたチームのコンセプトであり、監督のサッカーフィロソフィーでもある“ENJOY FOOTBALL”の文字。さらに後ろ襟のすぐ下には“THANKFUL TO PARENTS”のメッセージも。
わずか12人でスタートした新生興國サッカー部に、ポゼッションという新しいスタイルを植え付け始めた。試合中のボール支配率を高め、魅せながら勝つ。そんなサッカーを標榜する彼のもとに、いつしかより能力の高い生徒が集まってくるようになった。しかも彼らは学業にも存分に励み、大学への進学率が高まれば学校側がさらに支援する。そんな好循環も生まれた。
「サッカー部の部員が12人から70人くらいまでに増えた頃、生徒数もひと学年500人くらいになっていたんです。そしたら『さすがにこの大所帯で修学旅行は難しいから、サッカー部は代わりにスペイン遠征でバルセロナに行ったら?』と言ってくれて。それが9年前の話で、ちょうどロナウジーニョ(元ブラジル代表のバロンドールホルダー)、メッシ(リオネル・メッシ。アルゼンチン代表のバロンドールホルダー)がバルサにいた時代。興國行ったらスキルを磨けるし、現地でバルサの試合を観戦できるぞというウワサが広まり、さらに選手が集まるようになった。『僕、イニエスタ(アンドレス・イニエスタ。FCバルセロナ所属、スペイン代表)の大ファンなんです。バルサみたいなサッカーしたいし、スペインに行ってイニエスタを見たいです』と言って、十何校もの特待の話を断ってまでウチに来てくれた選手もいました。卒業後、松本山雅に入団して今はJ2の栃木SCにいます。和田達也。彼が興國のプロ第1号で、その頃から一気にひと学年100人近くまでになりました。だから僕の指導がどうこうではなく、学校のおかげなんですよ。理事長の経営者としての先見の明や手腕が凄くて、成果が出たらその分、惜しまずに支援してくれる。バルセロナ行きを薦めてくれたのもそうですし、サッカー部のスタッフとして新たに教員を雇ってくれたのもそう。理事長の期待が運よく、徐々に実っただけであって……」
サッカー部の繁栄と比例して生徒数も年々増え続けているとあれば、学校側も高く評価し、バックアップをするのは当然なのだろう。聞けば、彼が非常勤講師として興國高校に入った頃から全校生徒数が右肩上がりに伸び続けているという。「男ばっかりですけどね(笑)」と白い歯を見せるが、少子化が進むご時世で、この事実は特筆に値するのではないだろうか。
「サッカー部が何とか軌道に乗り始めた頃、大学から推薦で声をかけてもらうケースに加えて、サッカーと勉強を両立させて受験に合格して大学に行く生徒も増えてきたんです。それを知ってか、サッカーをしていない学生もウチに入学するケースも増えるようになりました。だから昔も今も、指導のベースにあるのは勉強を疎かにするなということ。やっぱり今の時代、サッカーバカではキツいなと僕自身が痛感したんでね。国立の大学に行ったもんやから、全く授業に付いていけなくて死ぬほど苦労しました。1ヶ月間、部活と授業以外の時間を学校の図書館に籠って猛勉強したんですけど、それでもようやく“可”を取れたくらい。愛媛TOYOTAで働くにしても知識の引き出しが少なくて。そういった経験があったんで、これも9年前になるんかな、アスリートアドバンスコースというのを立ち上げたんですよ。今時どこの私立高も体育科はあるけど、文武両道コースはないからやりましょうよと。それでその1期生の生徒が卒業後に関西医大に進んで、一昨年に医師免許を取って今は研修医としてがんばってます。サッカー推薦で高校に入って卒業して医大に進む、そんな生徒のいる高校、ウチだけやと思います。推薦で来て全国目指しながらがっつりサッカーに打ち込んで、それこそ同級生にプロになるような生徒がいるなかで医者になるって、そうある話ではないでしょ? そのことがきっかけで、翌年から医学生育成システムというのも新たにできました」

3年生が抜け、新チームが発足したばかり。完成度を高めるのはこれからだろうけれど、チームの雰囲気は上々で、この冬のスペイン遠征の充実ぶりを物語るかのよう。
停滞感を一掃し、サッカー部のみならず学校全体にまで高揚感を波及させる。そんなクリエイターさながらの発想力と推進力を持つ内野監督。次回のvol.2では、よりサッカーに踏み込んだ内容を公開予定。ただ、クリエイティヴな仕事にもつながる話が満載ゆえ、サッカーに興味がない人もスルー厳禁でよろしくどうぞ!
撮影協力:J-GREEN堺(http://jgreen-sakai.jp/)
[vol.2] ウチの選手は全員サッカー小僧なんですよ。僕もたいがいクレイジーですけどね(笑)。

内野智章
興國高校サッカー部 監督。
大阪府堺市出身。初芝橋本高校1年時に“冬の選手権”に出場。高知大学卒業後、愛媛FC(当時JFL)に入団するも1年で退団、引退。2006年より大阪市天王寺区にある興國高校の体育教師、およびサッカー部監督に。毎年コンスタントにプロ選手を輩出するなど、Jリーグや大学のスカウト陣、高校サッカーファンをざわつかせている。中学、高校、大学、さらには国体の選抜チームでもキャプテンを務めた生粋のリーダーにして名コンダクター。